片野光男です。現在は、先の見通せないストレスの多い世界です。私自身も得体の知れぬ不安、不条理に悩む日々を送っています。
これら不安の一つは「社会に拡大し続けている不平等性」に対する我々自身のあきらめ(容認)からきているのではないか?若い頃よりこの思いは、私の脳裏から離れませんでした。
年金制度の破綻や国民皆保険制度がほころび始めたのも、経済力の低下や少子高齢化以外に、この「人々の間の不平等性を容認し始めた社会」にあるのではないでしょうか?

 今や、不平等性の容認は、人の死にまで忍び込みつつあります。
ここで、私が42歳の時に、「比較思想学会」に寄稿した「終末期医療―「病む」という無意味な時間―」を皆さんにご紹介したいと思います。ここには、ほんの23年前の社会があります。


 「人々の間の不平等性を容認し始めた社会」

 健康を前提とした人間の意味については実に多くのことが語られているが、病に見舞われた時の人間の存在の意味や価値については医学の分野においてさえほとんど学問体系として扱われていない。特に我が国においては皆無に近い。
この理由の一つは、疾病はすべて治癒可能であり、現在治療の望めない疾患に対しても将来は必ず治癒可能であり、この疾病の征服こそが医学の目標だと確信してきたことである。
その結果、人間の一生が時間的に限られているなら、価値のある「健康に生きる」時間を延ばせば「病む」という無意味な時間は自ずと短縮されるという理論が導き出されることになる。
今や、病気になるということは人生において時間を止めることであり、意味のないことなのである。医学は貴重な時間を意味のない時間で塗りつぶされないために悪戦苦闘をしているのである。

 素晴らしい戦いにみえるが、常に戦いには犠牲者が生まれる。
高度最先端医療推進の犠牲者はそれを供与するに足らない(?)老人であり終末期にある人々である。
多くの健康な人々は叫ぶ「それでもなお、医療が未熟な時に比べれば老人も終末期患者も随分手厚く扱われるようになった」と。この言葉が示しているものは人間の不平等性の容認である。
健康な人は病気の人に勝り、若者は老人より価値あるものだという理論である。

「意識してゆっくりと歩む社会へ」
 今の科学は過渡期という名の下にまさに人間の不平等性拡大に向かって進んでいるのである。しかし、一方ではこの科学の進歩によってどの時代よりも人間が平等であるべきことを社会は学んできた。科学の進歩は人間が平等であるべきことを明らかにしつつ、不平等性拡大に進んでいるのである。
つまり、科学の進歩(社会へのより大きな貢献)は常に新しい倫理的な課題(供与の不平等性)を生み出し続けるのである。
したがって、急速に進歩する医学においてはその歩みを意識的に緩やかにするか、生み出される倫理的課題に情熱を傾けることにより、進歩が生み出す不平等性の縮小にも努力してゆかねばならないのである。

 このような意味で「進歩の速度は解決可能と考えられる倫理的問題を生み出す程度でなくてはならない」と考えている。さもなければ、地球は「人間はもともと平等ではない」と叫ぶ人々でたちまち一杯になるであろう。

「間柄的存在を実感できる社会へ」
 そもそも人間はどのような意味を持ち存在しているのだろう。
「我々は本来、我々自身のために存在しているというより、他の人々のために存在している」と私は考えている。即ち、自分が存在する意味を自分自身の中に見出すことは困難であるけれども、自分以外の人々の中に見出そうとすれば屡々満足のいく結果を得ることができる。つまり、人間は「間柄的な存在」として創られていると考えている。

 であるから、社会が「終末期」にある人々をもはや「他の人々に対して自分を与える能力の欠如した人々」と見るならば、彼らを間柄的存在として見ることを放棄したことであり、「終末期」の人々はたとえ、医学的に「生きている人々」であると社会が叫んだとしても、既に彼らは社会的なそして文化的な死を味わうことになるわけである。 同様な理由で老人や身障者などもしばしば生きながらにして死を味わう危険性を孕んでいる。

 このような危険性を大きくした原因の一つは、経済的、物質的進歩である。この不確実な進歩は、健康な若者の住む社会から終末期の人や老人を無意識のうちにまんまと特定地域に追い出すことに成功したのである。

 その結果、健康な社会に住む多くの人たちがこれら終末期の人や老人との間柄的生活を体験する機会を失い、両者の間に不平等性の倫理的バランスがとれなくなってきたのである。
同様の理由で、医療従事者は急速に進む医療の言葉や技術を学んでいるうちに、病む患者側からの視点を感じる能力が消え失せていくのである。

「利用できるから利用してもらいたいと考える社会へ」
 患者の視点を感じられないようでは「終末期」の意味は全くと言ってよいほど見えてこないであろう。したがって、終末医療の根本は「終末期にある人々」の視点を感じる努力をすることである。そうすれば、人間は肉体的死が訪れる瞬間においてさえなお、間柄的存在であることが体験される。
私はこれまで、医学や科学の進歩がまるで我々に「老人や終末期患者の視点」を忘れさせてきたかのように論じてきたが、それは一つには止まることを忘れた進歩がもたらす犠牲者たちへの拡大する不平等性に危惧を感じたからである。

 一方では、これら医学の進歩のもたらした貢献に大きな喜びも感じている。
今、話題となっている臓器移植の問題はまさに、人はその肉体的死をもってさえ他の人々の生命を支えうる可能性を示し、人間の「間柄的存在」の意味をより具体的に表した。
ここで、いま一つ考えておかねばならないことは、獲得した技術の進歩をどのような倫理観をもって実行するかということである。
ある人は「死という人生の最終局面においても滅びゆく自己が臓器提供という手段でなお他の人のために存在しうることを可能にした医学の進歩に感謝するであろう」。またある人は死にゆく人を前に「個人の死を他の人の生命維持のために利用できるようになった医学の進歩を賛美するであろう」。

 注意深く聞かなければこの両者の考えの差異は見えてこないだろう。
前者は「死をもってさえ他の人との間柄的関係を維持できることを感謝」しているのであり、後者は「これまで無意味であった死体を他の人に役立てることができるようになったことに感激」しているわけである。
即ち、前者は「死にゆく人自身の視点」であり後者は「死にゆく人を傍観する人の視点」であることに気づかねばならない。

 同じ医学を踏襲し、類似した目標に向かって歩みながら欧米と我が国の間に「臓器移植」に対する考えに違いが生じてきた最大の理由はまさにこの点であり、「使う」から「使ってもらう」という自己存在の意味への視座の変換の必要性を痛感する。

「一人ぽっちにさせない社会へ」
 同様に終末医療に対しては「与える」から「与えあう」、更に「受け取る者がいて初めて与えることができる」つまり「受け取ることは与えること」であるという見失いつつある平等な人間関係の視座を思い起こすことである。
人間の平等性を常に確認してゆくことが進歩し続ける社会にとって道義的倫理的健康性を維持するために必要なのである。

 人間はその死に至るまで放置されてはならず、この意味で医学の進歩は「自分自身をも守れないと感じている病む社会的弱者を最後まで我々との関係の中に止める」ことができるよう力強く進んでいかねばならない。
そして「人間はすべて平等であり、誰をも一人ぽっちにさせてはならない」と我々自身が感じうる人間社会に成長するには、そろそろ老人や病める人々を健康な(?)者たちで作り上げた社会の中に取り戻すことを始めなければならない。

 根本は我々が「人間存在」の意味をどうとらえ、どのようにあるべきだと考えているかを自己の中に確立することである。

「認め合う社会へ」
 最後に現実の私の日常診療の中から「患者の視点」とは実際にはどのようなものであるのかを一つ紹介し筆を置くことにする。

 彼女は四十歳代の方で、かなり進行した胃癌でわたしどもの所へやって来ました。手術はできましたが、その後数年して腹痛と食事が摂れないということで再びやって来ました。
検査の結果は胃癌の再発で肝臓に多数の転移を認めました。私は彼女に入院して治療することを勧めました。

 ところが、彼女は「癌の再発でしょう?もし入院して治療すればどのくらい生きていることができますか?」と尋ねてきました。
私は咄嗟のことであり、ご主人とも相談してみましょうと言ってその場を逃れました。

 数日してご主人とともに現れました。
再び彼女が「入院すればどのくらい生きることができるとお考えですか?」と聞いてきました。私は正確には覚えていないところもありますが、多分「一年くらいは何とかやってみましょう」と答えたと思います。
その時、彼女は「有難うございました。誠に申し訳ありませんが、入院はできません。ただ痛み止めをいただけませんか」と言いました。
私は一年くらいといったのが誤りだと考え、「一年は保証できるという意味で、ひょっとすると何年も大丈夫かもしれませんよ」と言い直しました。
彼女はちょっと笑って「先生、御心配なさらないでください。一年も生きられるかもしれないと聞いて、実はびっくりしているくらいです。一年という時間を聞いて本当に嬉しく思いました。私が死ぬのは今日明日ということで無いことがわかりました。まだ子供が小さいのですが、私の体の調子がおかしくなってからは子供が私にくっついて離れないようになりました。私はこの子を見ていると、今こそこの子を抱いていてやらなければならないと思うようになりました。皆は子供のためにも入院して一日でも長生きすべきだと言われるでしょう。それも真実だと思います。しかし、胃癌の再発で手術では治らないと感じた時から、この子のために離れずにいてやりたいと思うようになりました。この考えは間違いかもしれませんが、残りの命をかけて子供を精一杯愛してやりたいと思います」と言いました。
私は「しかし、現実にあなたはほとんど食べることもできないし、腹痛も強いでしょう。こんな状態でお子さんの面倒がみれますか?」と再び入院を勧めました。彼女は直ちにこう言いました。
「子供は私がお腹が痛くなったらお腹をさすってくれますし、吐いていたら洗面器を持ってきます。この子の私を求める気持ちを考えれば肉体的な苦痛は耐えることができます」。

 彼女は「本当にすみません」といってご主人とともに帰っていきました。
この間ご主人は何も言わず、時折深く頷いているだけでした。

 彼女は「終末期の生き生きとした価値観」と「他の人の価値観を受け入れる柔軟な価値観」の大切さを私に教え私のもとを去ってゆきました。

平成4年12月5日佐賀医科大学講師 片野光男


 23年が過ぎた今、平均寿命の延長と共に独居老人、老老介護、認知庄、孤独死、離婚、年金問題、生活保護、、、、など、より多くの星降るごとく悩ましい問題が次々と行く道に姿を現してきています。
そして、残念なことに、我々は人間の不平等性を認め、あるいは正当化する社会へと歩み始めています。

 すなわち、死同様、自分の努力だけではどうすることもできない不平等性を背負って生きなければならない社会を作り上げようとしているのです。
その結果、死以外の、得体のしれない不安を背負うことになったのではないでしょうか。

 この重荷を少しでも軽くするには、「間柄的存在」を実感できる社会(人間関係を柱とした共同体)を取り戻すことだと思っています。
何かを得るには、何かを捨てなければならないでしょう。人間関係を柱とした共同体の一員となるために私は改めて「自己中心的な考え」を減らせるよう努めたいと思っています。